History

 昔、大和の国を追いやられた小手姫さまが息子の鉢子皇子を追いかけ、途中辿りついたのが川俣でした。

川俣は大和の景観にそっくりであったことから、小手姫さまはそのまま川俣に住み着き、養蚕や機織りをこの地に伝授したと言われております。その後京都の公家や神社に奉納するために絹織物が盛んであった時代、小山や桐生で織られていた軽目羽二重は、養蚕が盛んであった福島や福井でも織られるようになります。

 

時は経ち、豊田の創業者である豊田佐吉が自動力織機を完成させた頃(1900年頃)、川俣でも大橋兄弟が大橋式力織機の開発をします。川俣の機屋は大橋家の尽力で、手織から川の水を使った水力織機となり、電気への移行とともに電力の織機へと発展させることができました。

 

戦時中、川俣の機屋は戦闘に必要なパラシュート生産のため織機を国に差し出すよう命じられます。

戦後、川俣シルクは日本復興の一翼を担います。高度経済成長期には、横浜経由で織物の輸出が盛んになり、川俣だけでも最大300軒近くの機屋が存在しておりました。欧州において「KAWAMATA」といえば川俣シルクを意味するほど広く知れ渡りました。

 しかしながら現在繊維産業の経済低迷とともに企業も減少し、今では川俣町でも4軒を数えるまでとなりました。そして伝統的川俣シルク『軽目羽二重』を織ることができるのは日本でも紺野機業場のみとなりました。

歩み

初代   紺野 峯吉

 

2代目 紺野 定吉

 

 

3代目 紺野 文男

 

 

4代目 紺野 彰一郎

 

 

5代目 紺野 峰夫

大正7年 絹の買継商として織物業をスタートさせる

 

川俣町キリスト教会跡地近くに工場を設営し、機械を導入して織物業を拡大させる。戦時中は東芝傘下の川俣精機(株)の取締役として国に貢献

 

海外輸出が盛んであった時代、スカーフ生地を輸出し、出機も含めて数百台の織機を面倒みながら高度経済成長を下支えする。

 

バブル経済崩壊後の時代に倒産企業が相次ぐ中、商売を伝統産業中心の形態へ転換する。

 

歴史を顧み、川俣シルク本来の特徴、強いては日本の良き絹文化を追求。

日本のいいものを発信し続ける。